ビル・ヒクソン先生 - フラワーコーディネーター森 由美子のホームページ

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ビル・ヒクソン先生(アメリカを代表するフローラルデザイナー)

 

【ビル・ヒクソン先生の履歴】

 

 ウィリアム(ビル)・ヒクソン先生は、1929年、アメリカ・オハイオ州ベリアで誕生。

10歳のときにクリーブランドに移り住む。幼い頃からものを育てることに興味を持ち、自宅のガーデンで花や野菜を育てた。中学時代、近くの高校で開かれていた植物栽培の成人教育クラスに入り、そこで素晴らしい園芸の教師に出会う。またクラスメートの誘いで、フラワーアレンジメント 教室に参加し、先生から優れた才能を認められ、先生が病いで退くにあたり、教室を受け継いだ。高校卒業後、1年間農園で働いたのち、マーサー花店、続いてノーブル花店に勤め、有益な体験をした。1948年、ノーブル花店と共同でフローラルデザインスクールを開いたが、3年後、彼自身の「ヒクソン・スクール・オブ・フローラルデザイン」を開校し、また店をオープンさせた。ヒクソン先生このとき22歳。

 その後、ヒクソン先生の助力により、新商品オアシスの普及に成功したスミザーズオアシス社とキャンドルメーカーのレノックス・チャイナ社の後援を得て、全米を回る花の講演会、ショー、講習会などを実施し、これによりフローラルデザイナーとしてのビル・ヒクソン先生の名声はアメリカ全土に広まった。

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 ヒクソン先生は20年以上にわたり、歴代大統領のためにホワイトハウスのクリスマス装飾を手掛けてきた。また世界のクリスマスについて該博な知識をお持ちであることから、「ミスター・クリスマス」と呼ばれることも多い。

 

【私との絆】

 

 恵泉女学園園芸科を卒業後、私は卒業生によって運営されていた恵泉園芸センターにスタッフの一員として参加することになりました。その頃、園芸センターの店は、日比谷と虎ノ門の中間にそびえる、地上9階、地下4階の当時としてはかなり大きなオフィスビル、飯野(海運)ビルの1階にありました。

 私は、店での仕事の他に、週に2回は外回りをして、東京駅周辺や新橋駅周辺の老舗や会社で受付、社長室、応接室などの花の装飾を行い、さらにお茶の水のYWCA学院での園芸と装飾のクラスを受け持つなど、忙しい日々を過ごしておりました。

 

 園芸センターの仕事を始めてから4年後の1966年(昭和41年)、アメリカからビル・ヒクソン先生が初めて来日されました。亡くなられた山口美智子先生が、アメリカでの研修中にヒクソン先生とめぐり合い、先生の優れた技量と見識に魅了されたことから、恵泉女学園が園芸センターのレベルアップをはかるために招聘されたとお聞きしました。

 ヒクソン先生をお迎えして、園芸センターは飯野ビルの一室で、先生による最初の講習会を実施しました。東京のトップクラスの花屋さんや育種家の方々にまじって、私のYWCA教室やFDC(NFDの前身)の世田谷教室の生徒さんたちも加わり、40名を超える盛況ぶりでした。ヒクソン先生は、アメリカではもっぱらプロの指導にあたっておられた方ですが、日本の若い女性たち、言ってみればごく普通の花好きな主婦やOLが大勢、数日間にわたる講習を熱心に受講したことにびっくりされたそうです。

 受講生たちは、朝から晩まで、お昼を除いては立ちっぱなしで指導を受け、花束のレッスンではワイヤーがけの宿題に葉物やワイヤーを持ち帰るなど、一般の方々にはかなりハードな内容でしたが、皆さん精一杯に頑張ってくださり、講習会も無事に終了しました。今でもその折のことは懐かしく思い出します。右は山口先生もご一緒にお食事をしたおりのスナップです。        

                                          

  

Bill Hixson2 msヒクソン先生、山口先生と

          

 

 ヒクソン先生は、園芸センターの終業後、私たちスタッフにもレッスンをしてくださり、花選びの的確さや、先生の花に対する情熱など、私には感激の連続でした。先生のご指導を夢中で受けた、あの楽しく充実した日々が、いまでも私の花の仕事の中に生きていると思います。

 とくに印象に残っているのは、ウェディング・ブケーのレッスンでした。キャスケード(滝状)スタイルで、Aラインのドレスに合わせて、花嫁がより上背があるように見せるブケーのアレンジメントを教えていただいたときのことです。

 私は部屋の後ろの方でレッスンを受けておりましたが、指示されたようにブケーを作り、先生のところへ持っていきました。先生もご自身でブケーを作っておられましたが、その作品が私のものと寸分たがわず、ぴったり同じものになっていました。「素晴らしい」とおほめいただき、「大切なのは、完璧にまねて、自分のものにして、その上で創意工夫をしていくこと」とおっしゃいました。

 このときのヒクソン先生の言葉は、永島先生の「花束を持つ瞬間に、花嫁さんが輝くように」という言葉とともに、折に触れて私も生徒さんたちに受け渡しているものです。

  先生は、アメリカンスタイル、ヨーロピアンスタイル、そして日本の活花のそれぞれによいところを取り入れた、目的にかなった合理的で独特なデザインを私たちに見せてくださいました。

 

 そうした折には、先生はアメリカから持ってこられたオアシスという、その頃まだ日本ではほとんど知られていなかった吸水性に富んだスポンジの花留(はなどめ)を使って、手際よく、バランスのとれたスタイルをいくつも見せてくださいました。日本では「フラワーアレンジメント」という言葉もまだ一般的ではなく、日本の花のデザイン界がまさに新しい時代を迎えようとしていた頃でした。

 

 ヒクソン先生にお会いしてから3年目の1968年、日本代表としてアメリカへ来ないかという先生のお誘いをいただきました。アメリカの10州、10都市で、3ヵ月間にわたり、アメリカ・日本・ヨーロッパ(スウェーデン)の三者三様の花の装飾をデモンストレーションするというものでした。

 

 活花は、小学校のときから秋山松子先生、小笠原文先生というお2人の先生方にご指導をいただいておりましたが、日本を代表してデモンストレーションを行うからには、それに恥じないものをアメリカの人たちにお見せしなければなりません。出かけるまでの日々、それまでにない集中力を奮い起こして、寝る間も惜しんでおさらいをしました。 

           
 

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 花嫁姿になってほしいというヒクソン先生のご要望があり、振り袖と日本髪のカツラを用意しました。活花は葉組み(ハラン)と20点ほどのデザインを考え、1~2時間で仕上げられるようにまとめました。大きなものは私の背丈ほどの立華でした。花器はヒクソン先生の方でご準備いただけるということでしたので、こちらからは乾燥したツルや葉物などを用意しました。

 羽田からホノルル経由(当時は西海岸までノンストップでは飛べなかったようで、ホノルル経由でした)でサンフランシスコへ。そこからもう一度乗り換えて、やっとクリーブランドに到着しました。    

     ショーでは、こんな花嫁姿に   私の衣装について説明されているヒクソン先生  
           
   

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 初めてのアメリカひとり旅。それも中東部までの長旅でしたが、空港で先生のパートナー、ユーニスさんにお会いするなり、いきなりショーの会場へ連れていかれました。

 すでに準備に取り掛かっていたヒクソン先生に合流し、スウェーデンから来られた同じ歳のブリギッタさん(愛称リタさん)に引き合わせられました。それから2晩をほとんど徹夜状態で準備に追われ、気がついてみたら3日目、最初のショーの当日でした。

 ヒクソン先生から折り紙と英文の手引書が手渡され、何か折ってくださいと言われました。会場の雰囲気づくりだろうと思ったのですが、ショーの合間に折り紙のデモンストレーションをして欲しいとのことでした。つたない英語で、折り方の説明をしながら、折り紙を披露することになろうとは、思いもよりませんでした。

 

 せっかくならと、デモンストレーションを行う演壇の左右に、花や鳥の折り紙で即席のパネルを作って飾ることにしました。それが思いのほか好評を博しました。

リタさん(右奥)と私

     

 

 

 

 ショーの会場はほとんどが花市場の広大な作業場で、千名ほどは入れそうなところが、毎回満席状態でした。ステージの上にはヒクソン先生、リタさん、私が横並びをし、それぞれの前に右の写真のような演壇が設けられていました。花材やデザインについて簡単な打合せをしてから、三人三様のデモンストレーションを行いました。ヒクソン先生はすでにご存じだったようですが、スウェーデンと日本の花の活け方には類似するところが多く、リタさんも私もいつもびっくりしていました。

 

 花材は3人が同じものを使うこともありましたが、めいめいが好きな花材をキーパー(冷蔵室)から選んできて活ける場合もよくありました。どこの花市場にも、いくつもの大きなキーパーが完備していて、花の種類によって使い分けられ、温度管理もきちんとされていました。さらにどの花屋さんにもキーパーが必ず備え付けられていることを知り、日本では花屋さんにキーパーなど、聞いたこともない時代でしたので、その格差に驚いたことを覚えています。

 

 

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演壇の左右に折り紙のパネルを作って飾りました。

 

   

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ショーの打合せに余念のないヒクソン先生

 

舞台裏で、ブケーを持つヒクソン先生

 

 

 

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フィラデルフィアの自由の鐘の前で。

ショーの合間に名所見学にもお連れいただきました。
  ヒクソン先生のスクールに一日体験入学もしました。クラスの皆さんとご一緒に。

  

 なにしろ広大なアメリカです。荷物を満載した大きなトラックで、文字通り東奔西走の日々でした。運転台でハンドルを握るのはヒクソン先生。その隣にリタさんと私がおさまって、一日千キロを飛ばすこともありました。楽しくもハードな3ヵ月間でしたが、ともに過ごしながら、ヒクソン先生のさまざまな表情に接して、いろいろなことを学びました。

 

 ヒクソン先生のお供で、オハイオ州ケントのスミザーズオアシス社にも伺いました。日本ではオアシスもほとんど知られていなかった頃のことです。その際にいただいたブックレットは、先生がスミザーズオアシス社のために作られた最初のデザインブックとお聞きしております。

 

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ヒクソン先生が作られたスミザーズオアシス社のデザインブックより。

 

  同じ1968年にはもうひとつ、私にとっては忘れがたい先生との思い出があります。アメリカから戻ってまもなく、ヒクソン先生とご一緒した広島のパン屋さん、アンデルセン社の主催するクリスマス・ショーでのことです。

 当時、広島は被爆後23年目。放射能で壊滅状態になり、「75年間は草木も生えないだろう」と言われていましたが、あの広島があんなに緑濃い美しい都市としてよみがえっていたことに、私はとても感動しました。

 ヒクソン先生と私の心配は、クリスマス装飾のためのグリーンが果たして現地調達できるかでしたが、市当局より、平和記念公園の常緑樹を自由に使ってよいというお許しをいただき、2人でハサミと袋を携えて出かけました。公園に着くと、何種類ものヒイラギ(ホリー)があり、モミの木があり、期待以上のグリーンが揃いました。この幸運は、20年もの間、原爆都市の復興に邁進され、数か月前に亡くなられたばかりの前市長、濱井信三氏が、緑の街づくりに努力されたおかげだった、と後になって知りました。

 

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  1968年の広島アンデルセン社主催のクリスマス・ショー。左から山口先生、ヒクソン先生、私。

 

 初来日以来、ヒクソン先生は毎年日本においでになり、花の美しさと花の仕事の楽しさを私たちに伝えてくださいました。私も機会があるごとに、主人ともども先生のホームグラウンドであるクリーブランドを訪ね、先生や先生の素晴らしい右腕であるユーリスさんとお会いして、楽しい思い出を積み重ねております。

 先生はドイツのガラス工房にもアドバイスされ、伝統的なクリスマス・オーナメントの復活に尽力されました。その貴重なドイツのオーナメントやホワイトハウスを飾ったクリスマス・オーナメントの松カサなどを、私も分けていただき、私のサロンの大切なクリスマス・グッズのコレクションに加えさせていただいております。

 

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ヒクソン先生のお店を2003年にお訪ねした折、

ホワイトハウスのクリスマス装飾の写真を見せていただきました。

 園芸センターの謝恩会(2012年)のあとで。

 

 

 

 今年は、もうすぐ始まる恵泉園芸センターの60周年の記念企画に参加されるため、ヒクソン先生がまもなく来日されます。3年ぶりにお会いするのを楽しみにしております。