永島 四郎 先生(フラワーデコレーター)
【永島 四郎先生の履歴】
長野県長野市(松代)に生まれる。出生年不明。大正10年千葉高等園芸学校(後の千葉大学園芸学部)を卒業し、東洋園芸会社入社。11年(1922年)、花卉装飾研究のために渡米、昭和8年(1933年)に帰国し、西銀座に「婦人公論花の店」を開く。19年、戦争のため閉店し、静岡県大須賀村(現掛川市)に疎開、結核患者のためピーナッツバターを製造。
戦後26年(1951年)、第一園芸(前身は、三井財閥が世界各国から草花を集めて造った戸越農園)に入社。日本のフラワーデコレーターの先駆者として、西洋の花卉装飾に東洋の感性を加味した独特の作風の花卉装飾を手がけた。昭和38年(1963年)9月逝去。主な著書は『花のデザイン』、『新しい日本の花卉装飾』。
【私との絆】
勉強会には、花の生産者、花屋さん、育種関係の方などが参加されておりました。私が出席した最初の勉強会では、白カーネーションのウェディング・ブケー制作を永島先生にご指導いただきましたが、「カーネーションで格調高い花束が作れるようになったら一人前」、「一生のうち、花嫁さんを引き立てる納得のいく花束がどのぐらい作れるか」などの言葉がいまだに折々思い出されます。
先生はご自宅が浜田山にあり、同じ井の頭線沿線の松原に住んでいた私は勉強会の帰り路をよくご一緒していただき、さらにご自宅にも招いていただきました。そんな折に先生が手掛けている花卉装飾のお話をうかがうのが楽しみでした。 |
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まもなく先生は、第一園芸でのお仕事先である三井クラブやホテル・オークラなどで行う大掛かりな装飾の制作現場にお連れくださるようになり、お仕事ぶりをまのあたりに拝見させていただきました。1962年2月、米国のロバート・ケネディ国務長官の歓迎レセプションの折にも、先生の装飾のお手伝いをさせていただきましたが、作業の間に、料理を引き立たせる花、長く持つ花の選び方、海外からのお客様に日本伝統のものを使うことなど、いろいろ教えてくださったことも忘れられません。
永島先生のご葬儀では、中林先生と私とで柩の花飾りをさせていただきました。そのときの思いはいまでも心に蘇ります。
永島先生の花と花卉装飾への情熱。それを私も生涯持ち続けていきたいものと念願しております。 |
『新しい日本の花卉装飾』 永島先生3周忌に集まった勉強会有志 ランの卓上盛り花 |
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結婚式の花 |
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